just be my blog

しっくりとゆっくりと更新しています。

とあるゲームの完結に際して

先日、私は「サクラノ刻」というゲームを終了した。

記念に私とこのゲームシリーズについて記しておこうと思う。

おそらく誰がこれを読んでも面白くないと思う。これは自分のために書く記事だ。

 

追記:別編として一応続作が予定されていますが、私にとって終ノ空からの文脈は終了しているため、完結としています。

 

出会いは2010年、13歳のある日、1つの曲に出会った。

「空気力学少女と少年の詩」というタイトルで、私はイントロから衝撃が走ったものだ。

必ず面白いゲームにちがいない。そう思った私がその曲について調べてみると、それは「素晴らしき日々」というゲームだった。それはR18指定だった。

私は、そのゲームをプレイするのに力不足だと直感した。今の時代では年齢制限など社会通念上でしか意味をなさないものが増えてきてはいるし、それは当時もそうだったであろう。だが私は直感で自分の力が足りないと思ってしまった。まだそのゲームの要素として、1曲聞いただけなのにもかかわらず。

 

それから私は、18歳まで待った。それまでにおそらく様々な経験を積んだし、学もある程度身についたのではないだろうか。

そうして私はついにゲームを手に取った。しかし、このゲームには1人の思想を前提に形作られていると知っていた。だから、私はプレイより先に論理哲学論考と題した本を読んだ。

初めて読んだときは意味が分からなかった。2度も3度も読んだ。時には著者の背景にある思考を読み解くため、他の哲学についても学んだ。そうしてようやく思考の残滓は読み取れたかのように感じた。私はゲームをプレイした。この時2016年の始め、18歳よりも19歳の方が近くなっていた。

 

私は衝撃を受けた。そして自分の直感に感謝した。13歳の時にいかようかの方法で(望ましいことではないが)プレイしていたら、おそらく意味不明どころか嫌悪感すら抱いたかもしれない。そのくらい表現は粗削りで、ナイフのような鋭さをもって私の心に突き刺さった。

 

プレイを終えた私は作者の制作物を漁った。ここで話したいのは「素晴らしき日々」の原案となった「終ノ空」そして「サクラノ詩」だ。

大学生の時に「素晴らしき日々」にとって前作に当たる「終ノ空」、そして次作に当たる「サクラノ詩」をプレイした。(連作と読み取ってよいかは人によるかもしれない。ここは各人の解釈に任せたい。)

私は「サクラノ詩」を終了させたとき、初めて作者の主張を自分なりに読み解けたように感じていた。それからも私は背景を知るため、他学部の授業の聴講をしたり、哲学書を読みふけったりした。そのような大学時代であった。

 

さて、そこから時が経ち私は社会人になった。私なりに努力した気はしているが、私はあまり社会になじめないらしく、医師からは精神病であることを告げられた。自殺も考えていた。

そんなとき「素晴らしき日々」と「サクラノ詩」をやり直した。

私はここで初めて実感をもって論理を理解した。今までの思考は机上であったと感じざるを得なかった。

私は「素晴らしき日々」と「サクラノ詩」を学生までの経験から批評する立場にいた。

素晴らしき日々」はおそらくそれでも問題はなかったように思う。だが、「サクラノ詩」の後半には主人公の社会人としてのエピソードが始まる。これは社会人にならなければ実感しえなかった。

私が学生時代に読み解けたのは直哉と稟の語る芸術について、そして神についてまでだった。そこから先は私にとって力不足を痛感するエピソードであったと思う。社会人になってプレイした現在と感じることが異なっている。

 

さて2023年の2月、私は「サクラノ刻」を手に取っていた。「サクラノ刻」は私にとって(一般的にも?)、シリーズにおける最終作の位置づけだった。それだけに、7年間の期待値は非常に高かった。

私はプレイした。シナリオ・グラフィック・システム、そして文章とイラストと音楽、すべてが文句のつけようがない出来だった。そして、社会人になった私には理解できることが多々あった。ただ、もしかしたら私にとってラストのエピソードのみ、まだ分不相応かもしれない。だが、それはおそらく時が解決してくれるだろう。

 

2010年、あの時にあの曲に会っていなかったら、そして私がプレイをするのを待たなかったら、今ここに「サクラノ刻」をプレイした私はいなかったかもしれない。(でもどこかで出会っていたかもしれない。)

 

私はこのシリーズに途中乗車した人間だ。そんな私が話すのもおこがましいが、シリーズの完結を素直に祝いたい。おめでとう。そしてSCA自、ありがとう。