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しっくりとゆっくりと更新しています。

4年間通った私が考える大学不要論に対するアンサー

こんにちは、大学をもうすぐ卒業できるであろう(?)ガノンドロフです。

終わりゆく大学生活で何をしているか?ゲームかyoutubeか麻雀です。

 

 

今回は最近次第に声が大きくなってきた大学不要論に対する考えを書きます。

あくまで一般的な(大学不要論のやり玉に挙げられている)大学生の話です。

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クソ文系大学生にも大学は必要だ

大学は4年間という時間を保証するもの

私は大学生活を

「卒業できる程度の学業を行うことで自由を保障してくれる時間」だと考えます。

 

大学で勉強したことなんて就職したら使わないという大人、たくさんいます。

一般的な大学生活を送っている学生に対してのこの考えには私も同意します。

しかしながら、大学生活で得た知識や知恵は多大に使っていると思います。

 

社会人と交流して課外活動を取り組んだ経験があって実感しますが、高校まででは絶対ついていけなかったと思います。でもそれまでの時間やっていたことは、少しの学業、サークル活動、バイトで、あとは引きこもりに近かったです。それでも、その時間で「何か」を私は掴んでいたのだと肌で感じています。

 

日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。

 

 太宰治の著した「パンドラの匣」の一節です。

私は勉強以外にもこの考えが言えると思うのです。

 

アルタ前に酔いつぶれていた経験も、ゲイバーに行った経験も、コナンを1話から全話見た経験も、パワプロ昼夜逆転してやった経験も、スロットで生計を立てていた経験も

きっと一見何の役にも立たないような経験がどこかに生きて、活きているんだと思います。

それは大学で勉強一本でやってきた人も、スポーツ一本でやってきた人も、きっと他の部分でその経験や知識は活かされていると思います。

 

これを実証する方法はありません。

でも大学生活という4年間があったから

今があると、私が身をもって証明できます。

 

学業と両立するという部分がなぜ必要なのか

学業と両立するハードルは人それぞれではありますが、一般的な大学生に関してはともかく卒業できるだけの努力をしなければこの考えは大学不要論へのアンサーにはなりません。

大学生活の4年間で得た「何か」は、あくまでやらねばならないことをやり遂げられる精神性を持つ人間しか発揮されないからです。

仕事もプライベートも、最低限の義務というものがあります。

自由は制限をもって存在します。制限のない自由はいつか堕落へ向かいます。

だからこそ、学業と両立した本人も意味のないと思っている経験が思わぬところで顔をのぞかせるのです。

 

 

最後に

大学がもしなかったら私はどうなっていたでしょうか、高校三年生のときの私の将来の夢は「ヒモ」でした。本気です。

自由を与えられた際、学業という制限にリソースを割きつつ、残りで何をするかは人によって本当に様々です。私は自分じゃ絶対選択しないような道を歩んだ友人を何人も見ています。

 

社会はそんな私たちの経験にある「砂金」に期待して、4年という自由を単なる放浪とみなさずに評価してくれるのではないでしょうか。